Bonnie Shiley さんのこと

夫の定年退職を機に私達は2005年7月に40年余住み慣れたカリフォルニア州ロスアンジェルス市から南部のサウス・キャロライナ州グリーンビル市に引っ越して来た。

カルフォルニアと比べ不動産の購入価格は4分の一、消費税は6%(カリフォルニア10%)、医療費や各種保険の支払いも格段に安く、犯罪率も低く、大学が多いので文化的な行事の恩恵に与る機会も頻繁に有り、加えて森林が多い為空気が清浄と云う諸般の事情を考慮しこれからの年金暮らしで無理なく老後を過ごすために選んで移り住み14年が経った。

ここはアメリカのバイブルベルト地帯のそれもバックル(ベルトの留め金)と呼ばれる中心部分で、昔から南部バプテスト派の信者が多く且つ共和党の強固な地盤の土地で良く言えば敬虔なクリスチャンの人々が多く、古き良きアメリカが未だ健在である。

ドイツのBMWとフランスのミシュランタイヤのアメリカ本社と工場が在り、グリーンビル市は正にその城下町となっておりドイツ人やフランス人駐在員家族の数も多く、両方の国の現地校も開設されている。

超リベラルな環境のロスアンジェルスに長年住んだ身には正午のニュースが放送される直前に、毎日国歌がラジオから流れると云う事に驚いたものだ。

日曜日となれば教会の駐車場に停まっている車の数は半端ではなく、デパートも他の商業施設も礼拝に行く午前中は店を閉め(一部のレストランは日曜日は終日休業)、レストランでは日曜日に限りワインなどのアルコール飲料は一切提供されない。

この街に引っ越して来て以来ずっと私が毎週買い物に行く「パブリックス」と云う名前のスーパーマーケットが在り、ここで働く人達の年齢が一見して可成りの高齢と思える人から高校に通っている年齢の若者まで日本のそれと比べマチマチである事に驚いた。

長年このマーケットに通う間にその中でもレジに立っている一人の女性と親しく言葉を交わす様になった。 

彼女の名前はボニー・シーリーさん。1937年生まれで現在82歳。 

2005年からずっとこのスーパーマーケットでレジ係として働いており、8台並んだキャッシュレジスターの内の1台を彼女が担当している。

この店は1930年に創立され本社はフロリダ州のレークランド市に在り、主にアメリカ南部諸州(フロリダ、ジョージア、アラバマ、サウス・キャロライナ、ノース・キャロライナ、テネシー、バージニア)に1270の店舗を持ち、エプロンと云う名前の初心者向け料理教室をマーケット内で展開しており、誰にでも簡単に出来る料理をモットーにし、薬剤師が常駐する薬局が店舗内に在り、「グリーンワイズ」と云う名前の独自の農園を持ち、そこで無農薬の野菜や果物を育て、そこで収穫されたものを自社製品として、一般商品と共に販売している。

オンラインショッピングは各家の玄関先まで商品を無料配達し、車で取りに来る顧客には店の車寄せまで従業員が持って行くと云う徹底したサービスぶり。

又毎週水曜日は「シニアデイ」となり60歳以上は購入総額の5%を引いてくれる為水曜日は私を含め近隣のシニアの多くが買い物に来ている。

2019年1月現在で従業員19万3千人、フォーチュン誌の最も働きたい企業100社の中で12番目に載った大手スーパーマーケットチェーン。

ボニーさんはインデイアナ州出身。48歳の時に夫に先立たれ、当時中学生を頭に3人の息子達がいたが、North AmericanVan Line と云う全米を網羅する大手引っ越し業社の本社総務部で秘書をしながら女手一つで育てあげ、その子供達も孫達も今はそれぞれ結婚をし独立。孫は5名になり息子達も孫の一人も教育関係の仕事に就いている。

退職して一人で暮らし始めた頃、サウス・キャロライナに住む息子の一人が自宅の向こう側の家が売りに出ているけど、母さん引っ越して来ないかと誘ってくれたので長年住んだインデイアナの家を売却し、2005年にグリーンビル市の息子の家の向かい側の家を購入して引っ越して来た。

冬は極寒の地となるインデイアナと違って南部の比較的温暖な地、特にサウス・キャロライナは冬でも雪はあまり降らず年寄りには住みやすい所なので来て良かったとの事。

それと同時に現在のパブリックスに職を求めた所偶然空きがあったので直ぐにパート従業員として採用され現在に至っている。

働き始めた理由は何歳になっても活動的でありたいからと云う事で、現在の仕事に満足しているか尋ねたら「私の年で他にどんな仕事のオファーが来るって云うの? でも仕事が有るって有難いし政府から来る年金とここで得る給料のお陰で毎日の暮らしは何の憂いも無く、時には買い物を楽しんだり、息子達からは経済的にも肉体的にも完全に自立出来ているし、週一で向かいに住む息子家族全員を我が家に呼んで私の手料理でもてなして一緒に食事をしているのよ。家族のコミュニケーションは大切だからね。 

それに毎日の様に顔を合わせる同僚達は皆いい人達ばかりで14年間もずっと働き通すことが出来たのは有難いわ。医者も毎日規則的な暮らしをして外との接触を保つのは良い事だからこれからも続けなさいと言ってくれたわ。職業に貴賎は無くどんな仕事も自分が責任を持ってやれば自信が付くしお客も満足してくれるの」と。

彼女は1日4時間働く時と、7時間働く交互のスケジュールになっていて週5日働いているが、金曜日だけは全休とし、医者のアポイントメントや銀行その他の用事に充てる時間にしている。

そう云う彼女は今迄に2度も腰の手術をやっており7時間ずっと立ちっぱなしと云うのは辛い事だろうと思ったが、時には椅子に座ってレジ打ちも認められているし、お客と話したりすると気が紛れるから物は考えようよ、何事もプラス思考でずっとやって来たから大丈夫と微笑んだ。

趣味の編み物と私立高校で教えている息子の学校のバスケットボール観戦のチケットをボランテアで売るのを喜びとし、毎週変える彼女のマニキュアの色はお客の興味の有るところで、時には黄色だったりブルーだったり、交互に違う色使いをしたり彼女の手先を見ながら話が盛り上がる。

彼女はアメリカの古き良き時代の「おっかさん」的モデルであり、どんな苦しい時にも決して諦めず前向きにプラス思考で生きることを教えてくれた人である。

日本の確定申告に思う

この原稿を書いている2019年3月現在日本では確定申告、アメリカではインカムタックスと呼ばれる税金申告の時期で「Death and Tax」の諺通り税金と云うのは絶対的なものでこれから逃れる事は不可能です。

施設に入居している93歳の母を見舞う為1ヶ月の滞在予定で日本へ行きその間1月に母の確定申告を税務署でやって国民の義務を果たしました。

昔取った杵柄、母は会計士と云う職業を50年近くもやっていましたので70歳でリタイアした後も88歳までは自分で申告書類を作り税務署に提出していましたがアルツハイマー型認知症になりその後は私が母に代わって毎年申告をする事になりました。

母にとっては国民年金と若い頃に掛けていた生命保険会社から入る年金が総収入ですが、こんな僅かな収入でも税金徴収の対象となり毎年数万円を納付しています。 

若い頃は戦争で青春を謳歌する機会も無く、戦地から戻った父と20歳で結婚し21歳で私を産み、父が戦後の混乱期に生きんが為に会社の物資を横流しした事が発覚し親はそんな奴は家の恥になると強制的に娘を離婚させ、その後母は再婚もせずに働き続け私を育て70歳までフルタイムで働き通してやっと安住の糧として得た年金ですがそれさえも課税対象となり納得が行かないと係の方に尋ねましたら「この方の場合は離婚ですね、しかも男並みの収入を得ておられたから寡婦控除には該当しません」との返事に唖然とし「それは本人が努力し、生涯必死で働いたからこそ得られた収入じゃないですか」と私は余りの理不尽さに怒りの持って行き場がありませんでした。

1959年(昭和34年)に国民年金制度が制定されましたが、これとは別に戦後の戦争未亡人の大量発生に焦点が当てられ1929年(昭和4年)に制定されていた救護法をその後昭和20年に寡婦福祉法に改正したもので、夫が戦死した場合寡婦となった女性を保護する意味で作られた法律が戦後70年を過ぎて尚厳然と生きている事実を突き付けられました。

世の中には夫のDV(家庭内暴力)に生命の危機を感じて離婚した女性も居ます。しかし彼女達には寡婦控除は適用されす、離婚したのは辛抱が足りなかったとどこまで女を馬鹿にした話かと怒りが湧いてきます。

所得税法第81条及び同法85条でこの法律は今日でも通用しており合計所得金額が500万円以下の場合は27万円の所得控除が認められていますが離婚し自立して働いた女はその恩恵に浴する事は出来ないばかりか年金収入さえ課税対象となるのです。

アメリカも今は確定申告の時期で私もターボタックスと云うソフトを買って自分で申告をやっていますが、結婚をしているかしていないかを問う欄は有っても配偶者と死別か離婚かを問う箇所は一つも有りませんし、それによって税金が違って来る事は有りません。

「女性が輝ける社会を」と国のリーダー達は機会ある毎に言っていますがそれならそれなりの備えを十分にして対策をするべきではないでしょうか。 母の様に今迄やって来た苦労が認められない社会は平成の次の時代には無くなって欲しいものです。

私が外国人と結婚した理由

16年に亘る結婚生活に終止符を打ちアルコール依存症の日本人の夫による家庭内暴力から逃れる様に高校進学を控えた娘と小学校高学年の2人の子供を連れ身の回りの物だけを持って家を出たのは私が30の中ばだった。

当然夫からの経済的なサポートは一切無く、当時私はロスアンジェルスに在る某日系商社で働いておりそこから得る収入だけでアパートの家賃を払い子供と私の3人が食べて行くのは難しく会社には内緒で仕事が終わると向かいのビルの中に在るホテルの土産物屋でパートとして働き、週末は新聞広告の求人欄で見付けた掃除婦として働き現金収入を得て何とか暮らしを続けていたが薄氷を履む様な日々だった。

その様な暮らしが1年程続いた年末に私は悪性の風邪に罹りとうとうダウンした。幸いな事にクリスマス休暇と新年の休暇の時期で仕事を休み穴を開けると云う事だけは避ける事が出来たがベッドに仰臥し天井を見つめ将来子供達に大学教育を受けさせ世の中に出す事を考えると心細さが募った。

無理が祟って寝込んだ時にこのままの生活を続けて行く事は自殺行為と身に染みて感じ、崖っぷちに立たされた私は何とか食べる事だけでも出費を減らせないかと考えた挙句に思い付いたのはデートをする事だった。

其れ迄子供を育てる為にがむしゃらに働き家と職場を往復するだけだった私は未だ30代後半とは言え心身は疲弊し子連れ無理心中予備軍に属して居た

鏡に写った自分自身をしげしげと観察し「市場価格」も未だそう悪くはないと計算した私は友人達から紹介された男性とデートを始めた。 

計算通り彼等は先ず食事に誘うので最初の頃は良く中華料理店を選び

「私アレも食べたいわ、コレも頂きたいわ」

と多めに注文すると殆どの男性は女の前では太っ腹な所を見せ鷹揚に

「いいよ、いいよ食べなさい」

と勧めて呉れる。

しかし私の計算は当然食べきれずに残ったものは全て持ち帰り家で待っている食べ盛りの子供達の食料とする訳で、しかも同じ男性とのデートは2回までが鉄則。何故なら男は2回目のデートまでは紳士で通すが3度目からは「侍れ」と暗黙の了解の如く振る舞い、4回目のデートでは

「ベッドルームへ行こう」

となる。

そう云う事が数年続き私は百戦錬磨の強かな女になりつつあったが、丁度その頃給料の見直しに伴い今で言う所の「働き方改革」が本社から指示され私の給料も随分と上がって暮らし向きは少し楽になり3つの仕事を掛け持ちでやる必要も無くなった。

私が働いて居た会社のロスアンジェルスに在る関連会社の社員から9年前に妻を亡くした男性を紹介された。

その頃娘は州外の大学に入ったばかりで家は息子と私の二人暮らしとなり、もう結婚など真っ平ご免と心底思っていた私は不遜にも相手の意向など全くお構い無しにこの男性と会う時は当然の様に息子連れで1週間分の洗濯物を抱えて出向き彼の家に有る洗濯機やドライヤーを無料で使わせて貰いハイ左様ならと帰っていたが、ここに大きな落とし穴が有って長年男の愛情に飢えて居た息子は直ぐにこの男性に懐いてしまった。

外堀を埋められた様な状況になりこの男性から結婚を申し込まれた時は嬉しいなどと云う感情は無く

「なんで私が貴方と結婚しなければならないの」

と云う意味不明の怒りであったが、今振り返って思えば最初の結婚で辛酸を嘗めた私は男性に対する憎しみと不信感の固まりになって居た。

この事を日本に居る母に電話で報告した時に母は

「まあ、よかった!直ぐに結婚しなさい」

と言った。 

「でも相手はアメリカ人よ、会った事も無いしどんな人だかお母さん知らないでしょう」

と反論する私に

「アメリカ人でも何人でも結構。今はそうやって男性が食事に誘ってくれるけど後10年経ってごらんなさい、誰も貴女を誘ってはくれないのよ。第一貴女の身に何かあったらこれから一体誰が二人の子供達を育てて呉れるの」

と畳み掛けて来た。

相手に対して愛情など全く無いと言う私に更に母は

「愛情なんか無くてもいいの。上手く行かなかった時は子供達を大学に出して貰ったと感謝して別れればいいの」

と爆弾宣言をした。

渡りに船とばかりに計算ずくで結婚した私だったが夫の両親や義兄は私達親子を暖かく迎え入れ、孫が出来たと喜び可愛がってくれた。日々の暮らしの中で温かな家族に囲まれ私の心も次第に穏やかさを取り戻し人間としてのあるべき姿へと変わって行った。

結婚に踏み切った時に私の預金残高は千ドルのみで翌月の家賃を払えば殆ど残らない状態だった。追い詰められた挙句に日本人の夫と別れ、養育費も慰謝料も無い中でその後8年間を子供と共に必死で生き、アメリカ人と結婚し共に暮らす日々は22年となりあの時母が背中を強く押してくれなかったら今の私はなかったと母に感謝し、無条件で私達親子を受け入れてくれたアメリカ人の懐の大きさと夫や今は他界した夫の家族に心から感謝している。

(5): アメリカ生活、充実の秘訣

私のアメリカ生活を充実させている事の中の2つを紹介します。

時間がある時はステートパークへ出掛け、しばしトレイルを楽しみます。トレイルと言っても、平らな森の中を歩くのもあれば 山の頂上を目指すものもありますが、私は数時間歩いた後に高い場所から見える眺めの良い景色が好きなので、大概は山のあるステートパークに行きます。

ノースカロライナ州にも沢山のステートパークがありますが、私は大抵自宅から 1時間から2時間圏内で行ける場所にリピーターとして山登りに行きます。

山と言ってもステートパークなので、散歩に来ている程度の軽装の人がとても多く、私もその1人で軽装で登っています。

(c) Akinori Ogata

昨日は、Elkinから北西へ30分程の所にあるStone Mountain State Parkに行ってきました。

悪天候続きで木が沢山倒れ、山の上に行くトレイルが閉鎖されていた為、今回は周りを2時間程歩くのみとなりましたが、静かな森の中を歩けただけでも、とても良い気持ちになるものです。

(c) Akinori Ogata

ステートパークを出た後は近場のブルワリーを探して行く事も多いですが、もうひとつ楽しんでいる事は、田舎町などの道端にポツンとある、地元住人に親しまれている小さな小さなローカルレストランに寄る事です。

(c) Akinori Ogata

どんな小さなローカルレストランでも、最近はインターネットで写真の1枚2枚は見れるので、一応下調べしてから入店。

地元住民に親しまれて長年経営しているレストランには、まずハズレは無いです。私の舌はサザンレシピを好み、高級レストランの味を知らないからなのかもしれませんが…

今回注文したのは、入店前にYelpで見て決めていた”Dawg Bowl”

コールスローの上に、チリ、ソーセージ、マスタードとダイス・オニオンがのっていて、とても美味しいです。

こういう旅をしていて思うのは、アメリカ国内ですら自分の一生涯をかけても訪れる事が出来るのは、ほんの一部だな、ということ。

そう思うと、旅は深いです。

(1): Natty Greenes Brewing Company

はじめまして 尾形 明紀です。

レース活動以外の事をここで紹介させて頂く事になり、ノース カロライナ州での生活、特に自分がこのアメリカで生活する中で 楽しんでいるブルワリーの事やローカルレストラン巡り、ステイトパークにハイキングやマウンテンバイクに乗りに行く事などを気軽に書かせて頂こうと思います。

私もまた他州を訪問する機会が多いですが、そういった時にはアメリカの何かを発掘したくて、時には車移動し、時にインターステイトには乗らずあえてローカルの道を行く事もしばしばあります。

その街々のダウンタウンに立ち寄る事は自分の中では必須項目で、そこで遭遇するアメリカは新鮮な事ばかりで、色々な事を目にし感じる事ができています。

そんな感じで 僕が感じる事を少しづつ紹介させて頂きたいと思います。

写真はノースカロライナ州 グリーンズボロのダウンタウンにあるブルワリー「Natty Greenes Brewing Company」。

グリーンズボロのダウンタウンは栄えている方で夜は結構賑わっています。

グリーンズボロといえば「Wrangler ジーンズ」の本社がある事を知らない人が多いですよね!

印鑑に思う

アメリカ在住歴が長くなると契約等を取り交わす際は日本と違い各個人のサインが重要になり印鑑を使う必要性が無く、印鑑そのものを持たない事が当たり前になって来ます。

印鑑と云う言葉を聞いた時、あなたはどんなことを考えますか?

日本で銀行口座を開設する時に必用なモノ。

書画の作者によって独自の作品の上に押したモノ。

回覧や宅配の受け取りなどに使われる認印で所謂三文判と呼ばれるモノ。

契約書などの文書において記載事項の誤記を訂正する時の極小さなハンコ。

予め訂正箇所が発生することを前提として、契約書や委任状の文章の余白に押した捨印

ちょっと思いついただけでこれだけの印鑑の種類と用途や意味が有りますが、印鑑と言えば中学の社会科の授業で習って皆さんご存知の通り1784年に現在の福岡市の志賀島と云う島で出土した「漢委奴国王」の金印が日本最古のモノとして有名です。

今回私は日本に住む90歳の母を施設へ入居させる為に約一ヶ月程日本に滞在しましたが、その間幾度となく書類に捺印をする機会が有り、住所変更に伴う届出だけでも市、銀行、医療機関、生命保険会社、公共料金の口座、デイケア施設など、契約書では新施設、銀行引き落としに関する書類等署名の他に捺印と云う習慣が有り、私の様にハンコを押すと云う習慣から半世紀近く遠ざかっていた者はハンコの押し方がきちんと出来ず押印したハンコの一部が掠れていたり、ダブったり、欠けていたりすると情け容赦無く書類は受付を拒否され戻ってきて、再度新たに押印して提出する義務があります。

今回は限られた時間内に取り交わすべき書類にハンコが正しく押されていなければ書類を持って慌てて彼方此方駆けずり回り何とか時間内に完了させなければと云うプレッシャーでヘトヘトになった経緯があります。

母の主治医が出す処方箋に関する薬代金の銀行引き落とし依頼書に押したハンコが一部掠れた様になっていた為銀行から取引を拒否され、薬局の担当者が新たに書類を航空便でアメリカの私の住所に送るので受領次第押印して即送り返す様一昨日Eメールで連絡が入りました。

ロケットが空を飛び、ips細胞が開発され、電子マネー決済が通用するこの時代に、百年以上も前の習慣を日本の政府や金融機関や不動産業者や宅配に到るまでがハンコ下さいと言って書類を持ち回っている事が私にとっては何とも時代錯誤を感じることなのです。

印鑑はもともと中国から日本に伝わって来た文化ですが、その中国でさえ唐の時代には書道の発展を背景として署名が用いられる様になり、公文書や書状に私印が使われる事は少なくなり、その一方書画などに用いる趣味、芸術のための印章が使われ始め印影そのものを芸術とする書道としてのハンコと発展はしても、印章が実用的な日用品として用いられる事はなかったのです。

江戸時代には行政上の書類のほか私文書にも捺印する習慣が広がり、現在の印鑑登録の起源となった印鑑帳が作られ印鑑は命の次に大事なものに例えられ、庶民の財産を保証するものとして非常に重く扱われる様になり日本独自の印章文化が確立した訳です。

それでも明治政府はこのハンコ文化の偏重を悪習と考え欧米諸国にならって署名の制度を導入しようと試みたのですが当時の識字率の低さや事務の煩雑さを理由に反対意見に押し切られ、自署の代わりにハンコを押せば事足りるとの事で現在のハンコ文化へ繋がったのです。

ハンコは100円ショップでも売っていて簡単に入手でき、誤魔化そうと思えば幾らでも出来るわけです。

明治の頃とは比べ物にならない程犯罪が多い現代は誤魔化す技術も高度になり偽印鑑は掃いて捨てるほど有ります。

それなのに何故この印鑑制度を21世紀にもなって続けているのか、世界中で捺印を義務つけているのは日本だけです。

然し乍ら印章は人の同一性を表す為に文書に使用されるものであることから、その社会的信用を保護する為刑法は印章偽造の罪を設けています。他人の印章又は署名を偽造した者は3年以下の有印私文書偽造の罪に問われる事になります。

お宅に印鑑は有りますか? 
最後に印鑑を使ったのはいつですか?
あなたにとって印鑑は必要ですか?

認知症の介護に思う

今年91歳になる私の母はアルツハイマー型認知症で1年前から要介護2に認定されています。先月私は日本滞在中に本当に偶然な事から母の為の素晴らしいケアハウス、正確にはサービス付き高齢者住宅、巷間では略して(サ高住)と言われている所を見つけることが出来ました。

サンカルナ福岡城南

私にとってこれは天啓とも云うべき発見で、母もそこが気に入り4月28日に入居の運びとなりました。

九州の地方都市と云う事もあり東京に比べたら信じられない程の手頃な料金で申し分ない良質な施設が見つかりました。しかし乍ら家賃に相当する入所費用は一括払いで6百万円、一ヶ月分の食費(一日3食)5万7千円、維持管理が月額8万1千円、食費は全く食べなくても最低基本料金として1万9千円は支払う義務があります。その他に自室でのテレビや電話の回線工事費用と月々の費用は個人負担です。加えて母の場合週3回デイサービスに通っているのでその費用が月額1万7千円追加となります。

幸いに母の場合長年働いて来て得た預貯金が有り、月々の支払いは年金で十分に賄え、私が保証人となりスムーズに入居の許可が出ました。

3年前に私は母の主治医から高齢であり独居暮らしは既に限界が来ているので然るべき施設への入居を検討して下さいと言われ、帰国する度に母を連れてあちこちの高齢者向け住宅を時間が許す範囲で見て回り、アメリカへ戻ってからは今度はケアマネージャーさんが母を連れて見学に行くと云う事が何度も続きましたが、結果としては母が住み慣れた家を出たく無いと云う気持ちが強くどうしても首を縦に振ってくれませんでした。 

この3年間私は年に2回母を訪ね身辺の世話をやっていたのですが、認知症が進み日常生活の中で物忘れが頻繁に起きる様になり既に買ったことを忘れ再び同じものを何度も買っていたり、つい最近では仏様に朝のお線香をあげた時に自分が擦ったマッチを所定の入れ物に入れず、よく消さないまま側にあった屑篭へ入れてしまうと云う事が起き、私が襖を開けると部屋中に白煙が立ち込めキナ臭い匂いが充満しており慌てて窓を開け火消しに追われると云うことになり、たまたま私が居た時で良かったもののこれが母一人の時に起こって居たらと思うと本当にゾッとしました。

こう云った行動面の失敗も目立つ様になり、今までは当たり前の様に出来ていた事、例えば預金通帳の保管場所、ATMでの現金の引き出しの際の暗証番号、現金の管理などが出来なくなり、月日も曜日も分からなくなり、時計を見ても時間が読めず、私や周囲の人から聞かれたごく簡単なことに答えられなくなりました。

先月受けた認知症のテストでは30点満点の8点と云う成績で、医者が私を呼んで説明してくれたことに依れば今後脳が食べると云うことを忘れて眠っている状態が増え死に至るそうです。

今や日本人の4人に一人は高齢者で、日本の高齢化は世界に例を見ない速度で進行して居ます。

介護保険制度が2000年に創設されて今年で17年目に入り、2006年には地域包括センターができ、自宅介護者と地域の医療関係者、介護事業所などを結びつけて、介護が必要な高齢者をその人が住み慣れた地域で見ていく取り組みも進んでおり、母が住んで居ます福岡市では徘徊する高齢者を地域ぐるみで見守る体制が構築されました。

高齢者に提供されるサービスが充実して来た事は確かですが、若しあなたの家族の誰かが認知症になった場合誰が介護をするのか、介護される高齢者の立場になれば住み慣れた場所で最期を迎えたいと思うのも、高齢者の親や配偶者の最後を住み慣れた場所で看取りたいと家族が思うのも自然の感情です。

しかしながら、自宅での介護は生易しいものではありません。 私の場合は母は日本に住んでおり、私はアメリカに住んで居ますのでアメリカに家族を残した状態で年2回の日本訪問となるのですが、70歳の私にとっては所謂老々介護と呼ばれる状態で精神的、肉体的な負担の増加に加え出費の増加となり家族の理解とサポート無しには到底出来ない事です。

若い世代は仕事をしなければいけませんが、親の介護で仕事を休みがちなると結局仕事を辞めざるを得なくなると云う「介護離職」も増えて来て多くのものを犠牲にし、介護で人生を諦める若者も出ることになります。

子供が愛情から或いは義務感から自宅での親の介護の責任を引き受けると介護に関わる時間が一日24時間、1年365日の「労働」となる可能性が極めて高いのです。そんな事分かりきった事と仰るかも知れませんが、私の様に年2回日本に行きたった一ヶ月ほどの滞在の間に介護するだけでも、滞在の終わりの頃は鬱状態になりアメリカに戻って医者から抗鬱剤を貰い、5分おきに同じことを言われイライラし、時間の感覚が無くなった母がとんでもない時間に私を叩き起こし睡眠が十分に取れず体力が消耗してゆくのですから、毎日同じ家で介護を担っている方達は本当に大変な事で「介護殺人」と云う悲劇も起こりうる訳です。兎に角介護には覚悟が必要で、要介護者を労わる強い想いがなければ続かないことです。

進行した認知症を患っている母の場合介護は日本とアメリカとに分かれている為十分な事が出来ない為片方は罪悪感があり、又片方は不満が募り愛情だけでは介護は出来ないのでプロの手に委ねるべきと思います。

介護は本来プロフェッショナルな技術が要求される仕事です。 たとえ家族介護者であっても不断の研修が必要になりますし、家族介護者はありとあらゆる介護責任を負わざるを得ない状態にあります。本来休息に充てる自宅での時間が全て介護と云う「労働」になる可能性が極めて高く、家族介護者には介護施設でプロの介護者が労働者として当然受けられるベネフィットが全く無く精神的にも肉体的にも疲弊してゆくのです。

現在日本では現役世代支援の一環として、出産、子育てのサポートがなされて居て法律化される様になりましたが、これに加えて是非とも高齢になった親、或いは配偶者を自宅で介護している人達にも目を向けて欲しいと思います。

銀行口座

日本に一人で住んでい私の母は来月で満90歳を迎え、足腰丈夫な彼女は頭はボケたとは言え自分の身の廻りの事はほぼ全部一人でやっており、公共の交通機関を利用して自分の行きたい所へは市内であれば問題無く行っています。 

勿論これは週3回来て下さる訪問ヘルパーさんに買い物や掃除それに調理の一部をお願いし、加えて週3回通っているデイケアでの体と脳のトレーニングの成果であることは否めません。

しかし母が元気とはいえ、90歳と云う高齢を考えますといつ何時死が訪れても不思議ではなく、特に私の様に太平洋を隔てて13時間も時差がある所に住んでおり一人っ子であるため兄弟姉妹はおらず他に身寄りが無い者は母の死に備えて十分な経済面と精神面両方の準備を整えておく必要があります。

そう云う私も来年は古希を迎える歳になり、嘗ては人間の生命力が70歳までも保てなかった事から古代稀なりと言われた70歳と云う年齢に達し、下手するとこちらが先にあの世行きとなるかも知れません。

私の周りで次々と知り合いが亡くなって行く現実を見ていますと残された家族は慌てふためいて葬儀に奔走するのが常で、その方々から伺った話で親の預金が引き出せず大変困ったと云う事です。

何しろ通帳や印鑑の保管場所も分からず、例え運良く見つけ出したとしても死んだ本人の口座が凍結されてしまえばビタ一文たりとも金は引き出せません。

何故銀行は家族が困ると分かっていながらこうも頑なに例え直系の身内といえども一旦口座の名義人が死亡したと分かるや否や一切金を引き出せない様にするのかと言いますと、預貯金は相続財産の一部であり、相続手続きが完了するまでは一切引き出せない上に、生前口座の名義人が誰かに借金をしていた場合は借りた金を払う義務が有り、その義務を終えるまでは家族といえども絶対に金を引き出すことは法律上出来ないのです。

それじゃATMマシンで引き出せばいいじゃないかと仰るかもしれませんが、昨今のオレオレ詐欺が横行する現状で政府も銀行もこれに対応すべく本腰を入れて規則を強化し、2年程前までは1回に何百万円と云う額であっても制限なしに残高が有る限り降ろせたのですが、これを1回に引き出せる最大限度額を50万円とし、1日最大200万円までと定めています。 

病院や葬儀社への支払いが迫っていてどうしても現金が即必要となった場合、死んだ親の口座から4回以上に亘って引き出しを試みようとすると銀行が直接口座本人に連絡をし確認をします。

そうすると死亡した親の口座から法に反して引き出しをやろうとしたとしてこれは歴とした犯罪となります。

その間亡くなった親の金は使えず、周囲が立て替えてくれたお金を清算することも出来ず私の友人の場合は1年以上に亘り銀行口座を封じられたままでした。

ではどうやって親の銀行口座をきちんと整理して閉鎖出来たかと言いますと、先ず銀行は親の親つまり祖父母の代にまで遡ってその戸籍謄本の提出を義務付けています。

ここで祖父母の戸籍謄本を如何にして入手するのかと云う疑問が生じますが、この記事をお読みのあなたはご自分の祖父母の本籍地をご存知でしょうか? 

大方の人が「知りません」と仰しゃる筈です。 

この祖父母の代にまで遡って本籍地を探すと云うことがどれ程大変な事かやった方はよくその苦労をご存知の筈です。 

女親の場合婚姻により姓が変わりますし、養子縁組をした場合もあり、自分が知らない遠い昔に親が再婚していたとかで姓が変わった場合もあり、友人の場合は親が満州から引き揚げて来た当時の記録がきちんとなされていなかった為に自分でこれをやるのは無理と判断しそれ専門の業者に委託し突き止めたのですが、相当の費用が掛かったそうです。

しかしこの祖父母の戸籍謄本無くしては物事は一歩も前には進まないのです。

親の死、それに始まる各方面への死亡通知、葬儀、初七日、初盆、一周忌など瞬く間に時間が過ぎて行きます。

限られた時間の中でこれだけの事を遂行しなければならず、加えて残された家族の相続手続き等が始まり一連の作業で心労と身体的疲労は大変なストレスとなります。

では親の口座が凍結される迄に打てる手はあるのでしょうか。

これについて母と銀行の担当者と私との3名で面談をし得た知識では銀行預金と違い保険金は受取人固有の財産で凍結される事はなく、保険金は請求後3日から1週間で振り込まれるので葬儀費用の他当座の支払いに充当できます。

又高齢化が進み様々な問題が起きているので銀行と生命保険会社が提携し新しい商品を販売し始めていますが、私の母の場合は彼女の普通預金口座へ毎月入る年金の振り込み額に加え当座使う額だけを残し、あちこちの銀行に分散されていた口座を一本化して銀行が管理する生命保険型預金とし生命保険の受け取り人を私の名義にしました。

2年前母を訪ねて実家に滞在していた私は或る日新聞に掲載されていた法律相談の中の「公証役場」の記事が目にとまりました。

「公証役場」或いは「公証人役場」と呼ばれているこの組織は簡単に説明すると公正証書の作成、私文書の認定などを行う官公庁で、公証人は実務経験を有する法律実務家の中から法務大臣が任命する公務員です。

母が作成して貰った公正証書遺言とは遺言者が公証人の面前で遺言の内容を口授し、それに基づいて公証人が遺言者の真意を正確に文章にまとめたものです。

公証人は多年裁判官、検察官などの法律実務に携わって来た法律の専門家で正確な法律知識と豊富な経験を有しているので複雑な内容であっても法律的に見てきちんと整理された内容の遺言状にします。

この公正証書遺言を作成する為には、母の場合不動産は有りませんので固定資産税に関する書類や不動産の評価額も不要ですが、銀行預金残額に対して手数料が掛かり持参する必要書類は以下の通りです。

1)遺言者本人の本人確認資料として印鑑登録証明
2)母と相続人である私の続柄がわかる戸籍謄本1通
3)銀行預金証明

以上の3つの書類を携えて遺言者の真意を確保する為証人2人の立会いが義務付けられていますので私と母を長年に亘り良く知っている方に一緒に公証役場に行って頂きました。

公証役場で遺言状を作る為の相談料は無料ですが、手数料は法律で定められている以下の額です。

目的財産の価格 手数料の額
(母の場合銀行預金のみ)

100万円まで 5,000円
200万円まで 7,000円
500万円まで 11,000円
1,000万円まで 17,000円
3,000万円まで 23、000円
5,000万円まで 29,000円
1億円まで 43,000円

となっており、生命保険は受取人名が契約時にきちんと明記されているので契約額が例え何億円と云うものであっても手数料の対象にはなりません。

遺言状作成と言いますと皆さんの中には弁護士事務所に於いて高額な費用を支払って作成して貰うものと云う感覚がお有りでしょうが、日本国民として税金を納めている人なら誰でもこの様な公共の機関を通して正しい遺言状を作成して貰えます。

この遺言状さえ有ればいつ何時親や配偶者が亡くなってもこの書類さえ持参して銀行へ行けば面倒な祖父母の代まで遡って得た戸籍謄本等無くてもその場で直ぐに預金が引き出せると云う訳です。

母が2年前にアルツハイマー型認知症と診断された時期と私が偶然目にした新聞の法律相談記事で公正証書遺言状について知ったのがほぼ同じ頃であった為、母が未だ自分の意思決定がちゃんと出来る内にこの遺言状を作成する事が出来たのは私達親子にとって本当に幸運でした。

死は誰にでも平等に訪れます。

しかも年の順に死ぬとは限りません。 

残された者が慌てふためいてしっかり考える時間も無い内に葬儀屋の言うがままに不必要とも思える高額な葬儀をやらざるを得なかったと云う事がない様に葬儀についてもしっかりと計画をしておく必要があります。

前回の一時帰国で私は3軒の葬儀屋と面談をし母の葬儀について予約をして参りました。

母の年になれば学友も幼い頃の友達も仕事仲間も殆どが死に絶えているか、ご存命であっても葬儀に参列する体力も残っていないと云う方ばかりですから参加者の人数は限られており、従って調達する料理の数や宿泊者用のレンタル寝具の数も容易に把握でき、極限られた家族葬の形となります。 

葬儀代金はクレジットカードでの決済が可能ですが、お寺さんに関しては現金のみの支払いが義務付けられており凡その額は葬儀社を通して知る事ができますが、矢張り直接頼むべき寺へ訊ねる方がより正確な額を事前に把握できます。

私も母も比較的プラクティカルな考え方の持ち主ですからこの様な死後に訪れる諸問題については生前にきちんと決めておくという方法を選んだ訳ですが、どの様な葬儀が希望か、誰と誰に知らせて欲しいか、形見分けは誰に何を残すのか等明確なリストを作成しておく事が大切だと思います。

生命保険の受取額には相続税の非課税枠が設けられている為、受け取った金額が非課税の範囲なら相続財産には加算されません。

非課税は相続人1人につき500万円まで。 

例えば妻、長男が相続人なら500万円X2=1,000万円
妻、長男、長女の場合は500万円X3=1,500万円まで非課税で保険を受け取る事が出来ます。

相続税を申告するのは相続の開始があったと分かった日の翌日から10ヶ月以内ですから1周忌が来る前にやらなければなりません。

オバマ大統領の広島訪問に思う

伊勢志摩サミットの全日程を終えたオバマ大統領は5月27日現職のアメリカ大統領として初めて被爆地広島を訪問し、広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊碑への献花や、原爆資料館の視察、そして被爆者代表の3名の方々に会った訳ですが、この一連の流れと云うか実況をテレビで見ていた私は大きな感動を受けました。

私がアメリカに来て40数年が経ちアメリカの政治に触れ、自分が置かれている色々な状況を考えるにつけ私は共和党支持者となりました。この8年間のオバマ政権に対して可成り批判的な思いを抱いていた私は今回オバマ大統領が若しかしたら伊勢志摩サミットに参加した折に広島を訪問するかも知れないと云うニュースを聞いて是非それが実現する事を願ったのです。

皆さんもご存知の様に今回のオバマ大統領の広島訪問に先立ち、ケリー国務長官がその先陣として初めて平和記念公園や原爆資料館をを視察し、展示内容物について衝撃的で胸をえぐられる様な体験であったと大統領に報告し、これは是非行く必要があることと力説しています。

オバマ大統領も任期を僅かに残すばかりとなり現在はレイムダック状態となっている身ですから、ここで現職のアメリカ大統領が曰く因縁つきの広島を訪問してもさしたる軋轢は無いと判断したアメリカ政府は国民の感情を調べた結果、戦後70年も経った今この訪問に対して反発も少ない事から今回の広島訪問が実現した訳です。

私自身この原爆資料館を初めて訪れたのは50年以上前ですが、多感な時期でもあったので受けた印象はとても強く、これは絶対に核兵器の絶滅を世界中でやらなければならないと深く思いました。

そして私の子供達が中学生になった時の夏休み、子供達の祖母を訪ねて日本に行った折に二人を原爆資料館に連れて行きました。

事前にそこがどういう所か、人類が何をやったのか子供達が当然受けるであろうショックや心理的ダメージを考慮して私は出来る限りの説明をし連れて行った訳です。

見せない方が良いのか、敢えて見せた事で二つの祖国を持つ子供達にどの様な影響が出るのか、私にとってこれは大きな賭けであったのですが、子供達は人類が犯した大きな間違いに対し平和の尊さを強く認識し、当たり前の様に自由に暮らしている事がとても貴重な事だと知り、世界中から核兵器の絶滅をやらなければならないと云う事を強く感じてくれました。

セレモニーの最後の方でオバマ大統領が被爆者代表の3名のご高齢の方々に近寄って言葉を交わす場面で、お一人の方が感極まって言葉に詰まり涙を流された時に極自然に大統領はその方をハグし何事か囁いていました。

これを見た瞬間私は国家元首と云う立場を離れ一個人としてオバマ大統領を判断した時、この人はとても柔軟な考え方の持ち主で、暖かい人柄なのだと云う事が胸に伝わって来ました。

民主党や共和党と云った政党に関係なく一人の人間としてバラク・オバマ氏をとても思いやりの有る広い考え方の出来る人だと感じました。

原爆投下に対するアメリカ政府の間違いを認め、謝罪の言葉と云うものは一切無かったものの戦後70年に亘り現職のアメリカ大統領が誰一人として訪れた事がなかった広島を、今回オバマ大統領が訪問してくれた事を心から良かったと思い、長い年月が掛かってしまったけどこれが世界に向ける平和へのメッセージとして第一歩を踏み出したと思いました。

嘗て敵対したアメリカと日本と云う歴史を超越して、人類と云う一つの枠の中で次の世代へ残し、引き継いで行くべき平和の責務が私達には有ります。

今回のオバマ大統領のメッセージの中でも「私が生きている間にこの目的(戦争を止め、核なき世界にする)は達成出来ないかも知れません。しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。この様な破壊をもたらす核兵器の保有を減らし、この死の道具が狂信的な者たちに渡らない様にしなくてはなりません」と言っています。

増え続ける日本の幼児虐待に思う

ベイビーブーマーの最たるものとして戦後すぐの1947年に生まれた私は、小学校は1クラス63名のすし詰で、しかも1学年が13組もあり教室が足りずに講堂や体育館に臨時のクラスを併設し、それでも足りずに運動場に蒲鉾型のバラックを作りトタン葺き屋根の為夏は熱が直に伝わり最悪の状態でした。

当時私の様な一人っ子と云うのは物凄く珍しくどの家庭も子供は3、4名が平均で、多いところは1家庭に10名近くいたものでした。

近所に住むYちゃんと云う女の子と私は学年が同じだった為いつも一緒に遊んでいましたが、彼女には幼い弟妹がいて学校から帰るとその子達の面倒を見るのが彼女の仕事で、当時小学3年生だった彼女は遊ぶ時は弟をおんぶ紐で背中にくくりつけ皆の集まる所に駆け足で来ていました。

こんな話をしますと今の若い人達は顔を顰め悲壮感と哀れさをもろに顔に表し、中には何と云う親だと憤る人もいるのですが、当時はこれが当たり前の子供の姿で仲良しのYちゃんも生後1年も経たない弟をおぶって皆でドッジボールをしたり家の床下を這い回って泥だらけになって日が暮れるまで遊んだものです。

Yちゃんの家庭は取り立てて貧乏だった訳ではなくお父さんは地方公務員で慎ましく暮らしていたとは言え、持ち家も有り当時としては普通のどこにでもある日本の家族で長女として生まれたYちゃんが幼い弟妹の面倒を看ていた訳です。

今の様に電化製品が揃っている訳ではなく、一家の主婦は朝から晩まで子育てと家事に追われていた為女の子が小学生になると母親にとっては重要な労働源となっていました

幼児虐待について書いているのに何故この様な60年も前の事を言うのかと申しますと、今の若い母親に限らず殆どの人が実際に自分がお産をして我が子を抱くまで「人間の赤ん坊」を抱いた事も触った事もないと云う人が多数を占めるからです。

私が子供だった頃はどこを見ても子供がうじゃうじゃしていましたし、赤ん坊の面倒を見るというのは女の子の仕事で、それを私達は当然の事として受け入れていましたので自分の家族ではなくても近所の子供であれば誰かが面倒を見ていた訳です。

其の様な暮らしを子供の頃からやっていますと自分の子供が生まれても其の延長線上のことをやる訳ですから特別に新しい事を習得しなければならないと云うのが無くスムーズに子育てへと入っていける訳ですし、周りには母親は勿論の事、お婆ちゃんも姉も妹も居ますし、近所のおばさん達も居る訳で子育てのベテラン揃いで常に誰かの目や手が届いていましたので現代の様な育児の孤立化と云うことは有りませんでした。

最近のニュースで心を痛めるのは若い両親が我が子を虐待し死に至らしめる事です。

未だものも言えず、親だけを唯一の拠り所としている子供に対して一体いつから日本人はこの様な鬼畜の心を持った人間になってしまったのだろうと考えてみた時に、行き着くのは自分が幼かった時に常に温かな目を向けてくれた近所のおじさん、おばさん、お兄ちゃんやお姉ちゃん友達のお母さん等の存在があった事です。

学校に行く事に意義を見出せず、又学業に付いて行けず落ちこぼれになった子供達は不登校児となり十分な教育と健全な精神の発達の機会を失い、余りにも恵まれ過ぎ何でも簡単に手に入る環境にあるとそれが当たり前の事と思い、核家族化の中で育ち周りに年寄りが居ない環境で年老いた人を労わると云う体験も無く、努力をして何かを得るまで我慢をすると云う訓練が全く出来ていない人間が親になり短絡的に我が子を殺める、こう云う恐ろしい現実をちょっと考えてみて下さい。

オムツが濡れて気持ちが悪いのか、お腹が空いているのか、飲んだミルクが胃に支えて苦しいのか生まれたばかりの新生児と云うものは泣く事でしか状況を伝える術を知りません。 

産褥にある母親は寝不足で疲れていても自分の身より我が子の事を優先し夜中に起きて愛情を持って赤ん坊の世話する、その毎日の積み重ねが母性を豊かにし、どんな困難な状況からも子供を守ると云う強い母親が出来上がるものです。

虐待により死亡した子供はゼロ歳児が全体の4割強を占める今の日本の現状では、この幼い命を守り将来の日本を背負って立つ人間を育てる為には親となるべき人間への教育をできるだけ幼い時期に始めるべきだと私は思います。

ただ勉強と塾通いだけしていればそれで良いというのではなく、出生率が減っている日本では赤ん坊を見る機会も少なくなっていますので、例えば高校生や親が産院などでボランティアとして働きその体験を機会ある毎に子供達に伝え、子供を産むと云う事は命がけの仕事であり、そんな大変な思いをして産んだ子供は自分の責任でどんな事があっても万難を排して育てなければならないと云う事を常に言い聞かせ、赤ん坊が居る所に子供を連れて行ったり、柔らかな体を抱く体験もさせ命の尊さ大切さを折りある毎に教えるべきだと思います。

虐待されて育った子供は将来自分も虐待に手を染めると云う結果が出ており、人それぞれ生い立ちが違いその後ろ側にあるものは他人からは窺い知れない部分が有りますが、悪の連鎖を止める為にも自分の子供には決してその様なおぞましい事が起きない様、親となるにあたって幼い尊い命を守ってゆく覚悟と自覚を持って新しい生命の誕生を迎えて欲しいものです。