Ancestors(先祖探し)

トップの写真左:ジョン・万次郎とホイットフィールド船長・右:カート母方のアマテイ・ウエストの娘、アマテイ・ブレイトンの墓。1912年没。アマテイ・ウエストはカートにとって高祖母で、彼女の娘のアマテイ・ブレイトンは曾祖母となります。108年前に没しています。

余談ですが、我が家にはカートのお婆ちゃんが使っていたベッドカバーが有り、それを来客用として使っていたのですが、とうとう先日破れました。100年位は使っていた模様で、繰り返し洗濯する事で布がボロボロになってちょっとした刺激で破け易くなっていました。小さな破れ目は私が当て布をして修復していましたが、最早それでは対応出来ない程の破れと布の痛みが激しくてとうとう廃棄処分となりました。

相方カートが書いた原文(英語)を私(綾子)が訳しました。原文は下に載せてあります。

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温故知新と云う言葉がある。これは孔子の言葉をまとめた「論語」を出典とするもので、昔の事を尋ね求めて、そこから新しい知識や見解を導くことで、英語でこの意味に当て嵌まるものは

Discover new truths by studying the past through scrutiny of the old

とでもいうのだろう。

悲しいかな過去100年程、現代のアメリカ人は自分達の先祖への関心をどんどん失いつつあります。 

嘗てはメイフラワー号で新天地アメリカへ来た子孫である事を誇りに思っていた人達は家族の系図を辿ると云う途方もない労力と忍耐の要る仕事を黙々とやり、それを達成した時の自信と喜びは喩えようも無いもので家族の誇りとなり一族郎党末代まで残る偉業として讃えられて来ました。

しかし忙しい現代社会の生活に於いて本業の傍ら途方もない時間と労力の要る調査を何の見返りも無く自分と自分の家族の為とは言え、何年も掛かって忍耐も経済的な負担も惜しまずやり続ける事に意味を見出す事が出来なくなって来たのです。

ところが、1990年代初頭のインターネットの普及により先祖探しは格段の進化を遂げました。

教会の古い出生記録や婚姻記録を自らの足で辿り調べる事は多くのウエッブサイトの出現で簡単に見つける事が出来る様になりました。

皆さんは

ancestry.com
findmypast.com
myheritage.com
genealogybank.com

などのサイト名を一度くらいは耳にした事がお有りでしょう。

こうしたウエッブサイトの出現により先祖探しはとても身近で簡単なものとなりました。

1990年に2人のアメリカ人青年が ancestry.com と云う会社を立ち上げました。 

これには国勢調査記録、墓地記録、地方および州の公的記録、軍事記録、出生、死亡、結婚を発表する新聞記事などが含まれており、2016年までに ancestry.com  には300億以上の様々な記録がデジタル化されており、このサイトを利用して家系図を調べる会員は300万人以上となりました。

他に newspapers.com と云うサイトでは世界中の12,000 以上の新聞から約6億に上る記録を有し、これには先祖のDNAも含まれています。

私の母方の先祖は1620年にメイフラワー号の2回目の船で英国からマサチューセッツ州に移住したジョージ・ソウルと云う名の男性で召使として入植しています。 

アマテイ・ウエストのお墓は既に
150年程経っていて
大理石の墓石に刻まれた年月日は
1872年2月没です。

この男性の3代目の子孫がアマテイ・ウェストと云う名前の女性で、その後の調査で彼女の父親はロード・アイランド州の副州知事を務めたウイリアム・ウエストであり、アメリカ独立戦争で英国と戦った将軍だったと云う事実が判明し、実際に私は同州に在る彼の墓を訪れる事が出来ました。

父方の先祖探しを始めた頃 ancestry.com のメンバーに父方の先祖であるドイツ系の名前ルイス・ナイトハートなる人物についてご存知の方は連絡乞うと云う公開質問を出した結果、上手く連絡が取れフランスのアルザス地方に私から遡る事6代離れた従兄弟が住んでいる事が判明しました。

早速連絡を取り、私達は最初Eメールで連絡を取り合っていましたが、遂にコンピューターのスカイプで出会いお互い自己紹介をしました。

この従兄弟の名前はアラン、妻はモニークと云う名前で二人とも退職した麻酔科の医師で偶然な事に夫の方は系図を調べるのを趣味としており退職後の時間は専ら系図探しに充当され何度も ancestry.com へアクセスした経緯が有ります。 

その後何度か連絡を取り合い私と妻がフランスのブザンソンに在る彼等の家を訪問し家族全員の紹介を受けました。彼等には2人の息子が居ますが、息子2人は共に日本人の女性と結婚しており、私自身の妻も日本人で日本女性を好きになるDNAが家族に組み込まれているのかと思う様な何か不思議な繋がりを感じました。

そして次は彼等がサウス・キャロライナに住む私達をフランスから訪ねて来てくれましたので2週間の滞在中にチャールストンや色々な所を案内する事が出来良い思い出となりました。 

我が家には父方の先祖の写真をダイニングルームに飾っていますが、その先祖の耳はアランの耳と全く同じ形をしており顔の輪郭もコピーしたかの様な同一の形をしておりDNAは確かに受け継がれていると感じました。

更に数年後には彼等の別荘が在るフランスのアルザス地方へ招待され私達は再び彼等と会う機会に恵まれました。

その後アランは私達の系図を1303年まで遡り、更なる先祖の追跡調査をやりました。

アメリカ人の先祖はヨーロッパからの移民が殆どですが、米国への日本人の移民から始まる日本人の家系図が最近増えていおり、findagrave.com のサイトでは多くの日本の墓の所在地やそこに埋葬されている人を見つける事が出来ます。

現在私が執筆中の小説の件で歴史考証として東京都立谷中霊園に江戸幕府15代将軍徳川慶喜の墓を訪ね、墓参りをする経験が出来ました。

あなたは歴史がお好きですか?ペリー提督の墓やウイットフィールド船長の墓を訪れたいた思ったことはお有りですか? 捕鯨船のウイットフィールド船長と云うのは嵐の海で難破したジョン・万次郎を救助しアメリカへ連れ帰り、十分な教育を受けさせ、彼を青年になるまで自宅で育て日本へ戻した人物です。

The Manjiro Story のサイトでは土佐清水市とマサチューセッツ州フェアフェイブン市に於いて1年置きに催される万次郎祭りに関する情報が開示されており、現在執筆中の私の小説にジョン・万次郎が登場する場面があり、その時代考証として現在福岡市在住の医師で万次郎の玄孫となる方とお会いし、今では家族ぐるみのお付き合いをさせて頂いています。

結論として私の家系図を調べると云う経験は非常に意義の有ることで、これにより満足の行く結果をもたらし、家族について更に多くの事を学びました。中でも重要な事は私にとって今まで会った事もなかった地球の反対側に居た人達が今では私の日々の暮らしを豊かにし、親しい友人関係になり、そして親戚が増えたと云う事です。

インターネットサイトの出現で先祖探しは格段の進化を遂げ、全くの素人でも検索が簡単に行えます。あなたもご自分の先祖探しにチャレンジしてみては如何でしょう。

カーテス・パイパー
Curtis  Piper

Do you know the names of your ancestors who lived during the reign of Emperor Goyōzei over 400 years ago?  Were any of them famous? Some Buddhist temples have records dating back more than 1,000 years. Have you researched any of them?

Americans used to keep records of births, baptisms, marriages, and deaths in a special section of their family bibles. Many churches still maintain more extensive records of families. But none go back as far as those found in Buddhist temples.

In the past, famous American ancestors were of great interest to their descendants. Those whose ancestors were early colonizers in the United States, especially those who came from England in the 1600’s, were a source of great pride. Ancestors who fought the British during the Revolutionary War were particularly honored. The Daughters and Sons of the American Revolution are two organizations that are still active, but interest in tracing one’s family tree has waned over the past decades.

However, due to the commercialization of the Internet in the early 1990s, learning about a person’s ancestors became much easier than searching through dusty family records.  Two Mormon university graduates started a company in 1990 that became ancestry.com in 1996. One of the ordinances of the Mormon religion is the baptism of the dead by proxy. Therefore, having information about a church member’s ancestors who lived before the Church of the Latter-Day Saints was founded is important.

The Ancestry website and several others, including genealogybank.comfindmypast.com, and myheritage.com, accumulate all types of historical records. They include census records, cemetery records, local and state public records, military records, and digitized newspaper sections announcing births, deaths, and marriages. By 2016, ancestry.com had digitized over 30 billion records and had more than 3 million paying members who use the site to expand their family trees. Members often find living relatives, albeit distant ones, they did not know existed.

The site expanded when it bought findagrave.com. People upload photos of gravestones and mausoleums, and the locations, names, and dates are put into a huge database. Ancestry also owns newspapers.com which has almost 600 million records from more than 12,000 worldwide newspapers. Ancestry also owns AncestryDNA.

When I was growing up, I heard that my maternal grandfather’s side of the family boasted of a governor from the state of Rhode Island who fought in the Revolutionary War.  My paternal side of the family was another matter.  My father did not know anything about his ancestors. 

About ten years ago, I decided to investigate. I had  two names. The first was Amity West, my great, great, great grandmother, and a family “myth” that her father was the governor of Rhode Island.  Through the Internet, I checked the names of all the state’s governors, but I could not find the name West.  Then, one day, I typed in “Rhode Island Deputy Governors”, and I found him!  His name was William West.  During the Revolutionary War, he became a low-level general whose claim to fame was that he led a retreat from a big English army! 

I discovered something even more interesting when I found a copy of the West Family History.  I learned that William West was a descendant of a man named George Soule who immigrated to Massachusetts on the Mayflower in 1620. He was an indentured servant to one of the other passengers. Indentured servants signed contracts to work for an employer for free for a certain period.  They were fed, boarded, and clothed. They were, in effect, temporary slaves. Seven-year indentures were the norm at that time.

The other name was Louis Neidhardt from my father’s family.  About the time I was researching the West name, I received an email from a member of ancestry.com who asked me if I was related to Louis Neidhardt.  The member turned out to be my sixth cousin. He had traced his family tree back to German-speaking Alsace, France, and he introduced me to a more distant cousin and his wife.  Alain and Monique are retired anesthesiologists. I and my wife Ayako, who often contributes to this website, have visited our cousins in France, and they have visited us.  Interestingly, both their sons have Japanese wives too. (It must be in the Neidhardt genes.)  After he retired, my cousin Alain pursued his interest in genealogy and has traced my family tree to 1303. 

The big websites are Euro-centric, but many Japanese family trees have expanded, especially the ones starting with Japanese immigrants to the United States.  Furthermore, one can find the location of many Japanese graves on findagrave.com. During my research for a novel I am writing, I visited Tokugawa Yoshinobu’s grave at the Yanaka Cemetery near Ueno. You might also check out 谷中霊園 (Yanaka Reien) which has a list of noteworthy Japanese.

If you are interested in history, you may wish to visit Commodore Perry’s  grave or Captain Whitfield’s grave. Whitfield was the sea captain who rescued Nakahama Manjiro (John Manjiro) and raised him until he was old enough to return to Japan.  You may check John Manjiro out on  The Manjiro Story  where you can learn about the Manjiro Festival every other year. Speaking of Manjiro, during the research for my yet-to-be published novel, I interviewed one of Manjiro’s descendants who lives in Fukuoka. Since then, my wife and I have become friends with him and his wife.

To conclude, I can say that tracing my family tree has been a very satisfying experience. I have learned much about history, but, more importantly, several distant relatives have become close friends who have enriched our lives.

Bonnie Shiley さんのこと

夫の定年退職を機に私達は2005年7月に40年余住み慣れたカリフォルニア州ロスアンジェルス市から南部のサウス・キャロライナ州グリーンビル市に引っ越して来た。

カルフォルニアと比べ不動産の購入価格は4分の一、消費税は6%(カリフォルニア10%)、医療費や各種保険の支払いも格段に安く、犯罪率も低く、大学が多いので文化的な行事の恩恵に与る機会も頻繁に有り、加えて森林が多い為空気が清浄と云う諸般の事情を考慮しこれからの年金暮らしで無理なく老後を過ごすために選んで移り住み14年が経った。

ここはアメリカのバイブルベルト地帯のそれもバックル(ベルトの留め金)と呼ばれる中心部分で、昔から南部バプテスト派の信者が多く且つ共和党の強固な地盤の土地で良く言えば敬虔なクリスチャンの人々が多く、古き良きアメリカが未だ健在である。

ドイツのBMWとフランスのミシュランタイヤのアメリカ本社と工場が在り、グリーンビル市は正にその城下町となっておりドイツ人やフランス人駐在員家族の数も多く、両方の国の現地校も開設されている。

超リベラルな環境のロスアンジェルスに長年住んだ身には正午のニュースが放送される直前に、毎日国歌がラジオから流れると云う事に驚いたものだ。

日曜日となれば教会の駐車場に停まっている車の数は半端ではなく、デパートも他の商業施設も礼拝に行く午前中は店を閉め(一部のレストランは日曜日は終日休業)、レストランでは日曜日に限りワインなどのアルコール飲料は一切提供されない。

この街に引っ越して来て以来ずっと私が毎週買い物に行く「パブリックス」と云う名前のスーパーマーケットが在り、ここで働く人達の年齢が一見して可成りの高齢と思える人から高校に通っている年齢の若者まで日本のそれと比べマチマチである事に驚いた。

長年このマーケットに通う間にその中でもレジに立っている一人の女性と親しく言葉を交わす様になった。 

彼女の名前はボニー・シーリーさん。1937年生まれで現在82歳。 

2005年からずっとこのスーパーマーケットでレジ係として働いており、8台並んだキャッシュレジスターの内の1台を彼女が担当している。

この店は1930年に創立され本社はフロリダ州のレークランド市に在り、主にアメリカ南部諸州(フロリダ、ジョージア、アラバマ、サウス・キャロライナ、ノース・キャロライナ、テネシー、バージニア)に1270の店舗を持ち、エプロンと云う名前の初心者向け料理教室をマーケット内で展開しており、誰にでも簡単に出来る料理をモットーにし、薬剤師が常駐する薬局が店舗内に在り、「グリーンワイズ」と云う名前の独自の農園を持ち、そこで無農薬の野菜や果物を育て、そこで収穫されたものを自社製品として、一般商品と共に販売している。

オンラインショッピングは各家の玄関先まで商品を無料配達し、車で取りに来る顧客には店の車寄せまで従業員が持って行くと云う徹底したサービスぶり。

又毎週水曜日は「シニアデイ」となり60歳以上は購入総額の5%を引いてくれる為水曜日は私を含め近隣のシニアの多くが買い物に来ている。

2019年1月現在で従業員19万3千人、フォーチュン誌の最も働きたい企業100社の中で12番目に載った大手スーパーマーケットチェーン。

ボニーさんはインデイアナ州出身。48歳の時に夫に先立たれ、当時中学生を頭に3人の息子達がいたが、North AmericanVan Line と云う全米を網羅する大手引っ越し業社の本社総務部で秘書をしながら女手一つで育てあげ、その子供達も孫達も今はそれぞれ結婚をし独立。孫は5名になり息子達も孫の一人も教育関係の仕事に就いている。

退職して一人で暮らし始めた頃、サウス・キャロライナに住む息子の一人が自宅の向こう側の家が売りに出ているけど、母さん引っ越して来ないかと誘ってくれたので長年住んだインデイアナの家を売却し、2005年にグリーンビル市の息子の家の向かい側の家を購入して引っ越して来た。

冬は極寒の地となるインデイアナと違って南部の比較的温暖な地、特にサウス・キャロライナは冬でも雪はあまり降らず年寄りには住みやすい所なので来て良かったとの事。

それと同時に現在のパブリックスに職を求めた所偶然空きがあったので直ぐにパート従業員として採用され現在に至っている。

働き始めた理由は何歳になっても活動的でありたいからと云う事で、現在の仕事に満足しているか尋ねたら「私の年で他にどんな仕事のオファーが来るって云うの? でも仕事が有るって有難いし政府から来る年金とここで得る給料のお陰で毎日の暮らしは何の憂いも無く、時には買い物を楽しんだり、息子達からは経済的にも肉体的にも完全に自立出来ているし、週一で向かいに住む息子家族全員を我が家に呼んで私の手料理でもてなして一緒に食事をしているのよ。家族のコミュニケーションは大切だからね。 

それに毎日の様に顔を合わせる同僚達は皆いい人達ばかりで14年間もずっと働き通すことが出来たのは有難いわ。医者も毎日規則的な暮らしをして外との接触を保つのは良い事だからこれからも続けなさいと言ってくれたわ。職業に貴賎は無くどんな仕事も自分が責任を持ってやれば自信が付くしお客も満足してくれるの」と。

彼女は1日4時間働く時と、7時間働く交互のスケジュールになっていて週5日働いているが、金曜日だけは全休とし、医者のアポイントメントや銀行その他の用事に充てる時間にしている。

そう云う彼女は今迄に2度も腰の手術をやっており7時間ずっと立ちっぱなしと云うのは辛い事だろうと思ったが、時には椅子に座ってレジ打ちも認められているし、お客と話したりすると気が紛れるから物は考えようよ、何事もプラス思考でずっとやって来たから大丈夫と微笑んだ。

趣味の編み物と私立高校で教えている息子の学校のバスケットボール観戦のチケットをボランテアで売るのを喜びとし、毎週変える彼女のマニキュアの色はお客の興味の有るところで、時には黄色だったりブルーだったり、交互に違う色使いをしたり彼女の手先を見ながら話が盛り上がる。

彼女はアメリカの古き良き時代の「おっかさん」的モデルであり、どんな苦しい時にも決して諦めず前向きにプラス思考で生きることを教えてくれた人である。

日本の確定申告に思う

この原稿を書いている2019年3月現在日本では確定申告、アメリカではインカムタックスと呼ばれる税金申告の時期で「Death and Tax」の諺通り税金と云うのは絶対的なものでこれから逃れる事は不可能です。

施設に入居している93歳の母を見舞う為1ヶ月の滞在予定で日本へ行きその間1月に母の確定申告を税務署でやって国民の義務を果たしました。

昔取った杵柄、母は会計士と云う職業を50年近くもやっていましたので70歳でリタイアした後も88歳までは自分で申告書類を作り税務署に提出していましたがアルツハイマー型認知症になりその後は私が母に代わって毎年申告をする事になりました。

母にとっては国民年金と若い頃に掛けていた生命保険会社から入る年金が総収入ですが、こんな僅かな収入でも税金徴収の対象となり毎年数万円を納付しています。 

若い頃は戦争で青春を謳歌する機会も無く、戦地から戻った父と20歳で結婚し21歳で私を産み、父が戦後の混乱期に生きんが為に会社の物資を横流しした事が発覚し親はそんな奴は家の恥になると強制的に娘を離婚させ、その後母は再婚もせずに働き続け私を育て70歳までフルタイムで働き通してやっと安住の糧として得た年金ですがそれさえも課税対象となり納得が行かないと係の方に尋ねましたら「この方の場合は離婚ですね、しかも男並みの収入を得ておられたから寡婦控除には該当しません」との返事に唖然とし「それは本人が努力し、生涯必死で働いたからこそ得られた収入じゃないですか」と私は余りの理不尽さに怒りの持って行き場がありませんでした。

1959年(昭和34年)に国民年金制度が制定されましたが、これとは別に戦後の戦争未亡人の大量発生に焦点が当てられ1929年(昭和4年)に制定されていた救護法をその後昭和20年に寡婦福祉法に改正したもので、夫が戦死した場合寡婦となった女性を保護する意味で作られた法律が戦後70年を過ぎて尚厳然と生きている事実を突き付けられました。

世の中には夫のDV(家庭内暴力)に生命の危機を感じて離婚した女性も居ます。しかし彼女達には寡婦控除は適用されす、離婚したのは辛抱が足りなかったとどこまで女を馬鹿にした話かと怒りが湧いてきます。

所得税法第81条及び同法85条でこの法律は今日でも通用しており合計所得金額が500万円以下の場合は27万円の所得控除が認められていますが離婚し自立して働いた女はその恩恵に浴する事は出来ないばかりか年金収入さえ課税対象となるのです。

アメリカも今は確定申告の時期で私もターボタックスと云うソフトを買って自分で申告をやっていますが、結婚をしているかしていないかを問う欄は有っても配偶者と死別か離婚かを問う箇所は一つも有りませんし、それによって税金が違って来る事は有りません。

「女性が輝ける社会を」と国のリーダー達は機会ある毎に言っていますがそれならそれなりの備えを十分にして対策をするべきではないでしょうか。 母の様に今迄やって来た苦労が認められない社会は平成の次の時代には無くなって欲しいものです。

私が外国人と結婚した理由

16年に亘る結婚生活に終止符を打ちアルコール依存症の日本人の夫による家庭内暴力から逃れる様に高校進学を控えた娘と小学校高学年の2人の子供を連れ身の回りの物だけを持って家を出たのは私が30の中ばだった。

当然夫からの経済的なサポートは一切無く、当時私はロスアンジェルスに在る某日系商社で働いておりそこから得る収入だけでアパートの家賃を払い子供と私の3人が食べて行くのは難しく会社には内緒で仕事が終わると向かいのビルの中に在るホテルの土産物屋でパートとして働き、週末は新聞広告の求人欄で見付けた掃除婦として働き現金収入を得て何とか暮らしを続けていたが薄氷を履む様な日々だった。

その様な暮らしが1年程続いた年末に私は悪性の風邪に罹りとうとうダウンした。幸いな事にクリスマス休暇と新年の休暇の時期で仕事を休み穴を開けると云う事だけは避ける事が出来たがベッドに仰臥し天井を見つめ将来子供達に大学教育を受けさせ世の中に出す事を考えると心細さが募った。

無理が祟って寝込んだ時にこのままの生活を続けて行く事は自殺行為と身に染みて感じ、崖っぷちに立たされた私は何とか食べる事だけでも出費を減らせないかと考えた挙句に思い付いたのはデートをする事だった。

其れ迄子供を育てる為にがむしゃらに働き家と職場を往復するだけだった私は未だ30代後半とは言え心身は疲弊し子連れ無理心中予備軍に属して居た

鏡に写った自分自身をしげしげと観察し「市場価格」も未だそう悪くはないと計算した私は友人達から紹介された男性とデートを始めた。 

計算通り彼等は先ず食事に誘うので最初の頃は良く中華料理店を選び

「私アレも食べたいわ、コレも頂きたいわ」

と多めに注文すると殆どの男性は女の前では太っ腹な所を見せ鷹揚に

「いいよ、いいよ食べなさい」

と勧めて呉れる。

しかし私の計算は当然食べきれずに残ったものは全て持ち帰り家で待っている食べ盛りの子供達の食料とする訳で、しかも同じ男性とのデートは2回までが鉄則。何故なら男は2回目のデートまでは紳士で通すが3度目からは「侍れ」と暗黙の了解の如く振る舞い、4回目のデートでは

「ベッドルームへ行こう」

となる。

そう云う事が数年続き私は百戦錬磨の強かな女になりつつあったが、丁度その頃給料の見直しに伴い今で言う所の「働き方改革」が本社から指示され私の給料も随分と上がって暮らし向きは少し楽になり3つの仕事を掛け持ちでやる必要も無くなった。

私が働いて居た会社のロスアンジェルスに在る関連会社の社員から9年前に妻を亡くした男性を紹介された。

その頃娘は州外の大学に入ったばかりで家は息子と私の二人暮らしとなり、もう結婚など真っ平ご免と心底思っていた私は不遜にも相手の意向など全くお構い無しにこの男性と会う時は当然の様に息子連れで1週間分の洗濯物を抱えて出向き彼の家に有る洗濯機やドライヤーを無料で使わせて貰いハイ左様ならと帰っていたが、ここに大きな落とし穴が有って長年男の愛情に飢えて居た息子は直ぐにこの男性に懐いてしまった。

外堀を埋められた様な状況になりこの男性から結婚を申し込まれた時は嬉しいなどと云う感情は無く

「なんで私が貴方と結婚しなければならないの」

と云う意味不明の怒りであったが、今振り返って思えば最初の結婚で辛酸を嘗めた私は男性に対する憎しみと不信感の固まりになって居た。

この事を日本に居る母に電話で報告した時に母は

「まあ、よかった!直ぐに結婚しなさい」

と言った。 

「でも相手はアメリカ人よ、会った事も無いしどんな人だかお母さん知らないでしょう」

と反論する私に

「アメリカ人でも何人でも結構。今はそうやって男性が食事に誘ってくれるけど後10年経ってごらんなさい、誰も貴女を誘ってはくれないのよ。第一貴女の身に何かあったらこれから一体誰が二人の子供達を育てて呉れるの」

と畳み掛けて来た。

相手に対して愛情など全く無いと言う私に更に母は

「愛情なんか無くてもいいの。上手く行かなかった時は子供達を大学に出して貰ったと感謝して別れればいいの」

と爆弾宣言をした。

渡りに船とばかりに計算ずくで結婚した私だったが夫の両親や義兄は私達親子を暖かく迎え入れ、孫が出来たと喜び可愛がってくれた。日々の暮らしの中で温かな家族に囲まれ私の心も次第に穏やかさを取り戻し人間としてのあるべき姿へと変わって行った。

結婚に踏み切った時に私の預金残高は千ドルのみで翌月の家賃を払えば殆ど残らない状態だった。追い詰められた挙句に日本人の夫と別れ、養育費も慰謝料も無い中でその後8年間を子供と共に必死で生き、アメリカ人と結婚し共に暮らす日々は22年となりあの時母が背中を強く押してくれなかったら今の私はなかったと母に感謝し、無条件で私達親子を受け入れてくれたアメリカ人の懐の大きさと夫や今は他界した夫の家族に心から感謝している。

ジャクソン

3月4日に愛犬のキャムデンが3人のテイーンエージャーが乗ったスピード違反の車に撥ねられ15フィート程吹き飛ばされて落下し亡くなりました。

救急病院へ即搬送しましたが内蔵破裂で助かる見込みは無いと獣医から報告を受けこれ以上苦しませる事は出来ず安楽死を選びました。

9歳5ヶ月の生涯でした。

私達に限りない喜びを与え続けてくれたキャムデン。プリンスエドワード島には8回も同行し、その他全米の各地私達が行く所には常に一緒でした。

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元気だった頃のキャムデン。凄いハンサムで体もマッチョ。足が長く体も大きくて私好みの男。(c) Ayako

 

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新しい犬のジャクソンです。体はキャムデンより一回り小さく足も短い。両目はブルー。(c) Ayako

 

遺体はその日の内に家に連れ帰り近所の方々が手伝って下さって裏庭に墓穴を掘りそこに彼が好きだった毛布やオモチャと一緒に懇ろに埋葬致しました。

その間、私の白内障の手術、腰の手術などを経て今日に至っていますが、見事なペットロスから鬱病になり心身の立て直しが出来ずに血圧の乱高下と云う結果に繋がり、最初は37に急降下し、次は200に急上昇し3週間の間に2回も私自身が救急車で緊急搬送される事態となりました。

犬を中心とした暮らしだったので失ってみればその存在価値が如何に大きかったか、火の消えた様な家で夫婦黙ってご飯を食べ、話すことも無く、ただ溢れる涙を止める事も出来ずに時間がゆっくりと過ぎて行く内に夫婦の関係もギクシャクとし出し、深く心に傷を負った私達はストレスが溜まりちょっとした意見の行違いで大喧嘩に発展した事が有りました。

犬を失った悲しみは犬でなければ癒す事ができず、キャムデンと同じ犬種のハスキー犬を全米で救助・救援活動をしている団体や施設へ貰い受けたい希望を出しましたが審査が大変厳しく、きちんと世話をしているか施設から調査に来るので住居が3時間以内の距離であることや、安全の為に高さ2メートル以上のフェンスを敷地内に張り巡らせているか、又年取って世話が出来なくなった場合の事が有り、貰い受ける側の年齢制限も有って申し込み状を提出しても何度も断られ心が折れそうになりましたが、それでも諦めずに毎日ネットで探し駄目元でコンタクトしていました。

その中の一箇所から連絡が入りこの2週間密にEメールでコンタクトをしていましたら面接に来て下さいとの事で夫と一緒に降りしきる雨の中を出掛けました。

距離はどんなに遠くても構わず何処へでも行く覚悟でいましたら同じサウスキャロライナのしかも高速で我が家から30分程の距離の田園地帯でした。

75歳のご夫婦が純血種のハスキー犬のみをショードッグとしてコンテストに出す為に飼育をしておられ7匹のハスキー犬が家にいました。

玄関を入って直ぐに自己紹介した時に奥さんが「私の叔父は軍役で日本に駐留して居た時に日本人女性と結婚して私にとって”アキコ”と云う名前の日本人の叔母が居ますと仰いました。

ご夫婦は自分達の年齢を考慮しこのビジネスから徐々に撤退する考えで今迄育てて来た犬達を少しずつ彼等にとって一番相応しいと思われる家庭へ譲りたいとのお考えで慎重に考慮を重ね私達にコンタクトして来て下さった次第です。

奥さんの方が最初に私が犬に触れた時の態度や犬が今まで他の誰にも見せた事がない喜びの動作をしたのでピンと来たと仰ったのですが、ご夫妻のお眼鏡に叶って私達が貰い受ける事になりました。

ハスキー犬のショードッグで中には全米のチャンピオンになった犬も居て、若し貴女が好きならこの犬でもいいですよとオファーを出して下さったのですが私達は6歳のオスの方を希望しました。

名前は貴女が好きなのに変えても構いませんと仰ったのですが生まれてからジャクソンと名付けられずっとその名前で呼ばれている犬は急に名前が変更になったら混乱するだろうと思いそのままジャクソンで通す事にしました。

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新しい犬のジャクソンです。体はキャムデンより一回り小さく足も短い。
両目はブルー。(c) Ayako

 

貰い受ける費用をお尋ねしたら、この子は金で売りたくは有りませんと仰って犬の持ち主名の公式登録の変更に掛かる費用35ドルだけを払って貰えればそれで良いと頑なにお金を受け取る事を拒否されました。

帰りに新しい首輪、リーシュ、ドッグフードも沢山持たせて下さった上に若し貴女達が今後長期の旅行などに行く時は是非この犬を私達の家に連れて来て下さい、私達が責任を持って無料で世話し預かりますと有難いオファーも出して下さいました。

母犬のお腹にいる時から世話をし、生まれたその日から愛情と時間を傾けて6年間育てて来た犬を今他人の私達に譲り渡すのはさぞ身を切られる程辛いだろうと彼等の胸の内を思い計るとこちらも胸が詰まり涙が溢れました。

大きなキャンピングカーが庭に停まって居ましたがその車に犬達を乗せて、来週は全米ハスキー犬協会の定例集会の為にネブラスカ州へ行くそうで、全米から集まった250匹以上のハスキー犬が一堂に揃う姿は素晴らしいと仰って居ました。

この費用が年間5万ドル掛かるそうでその費用捻出の為にご主人は75歳を過ぎても自動車修理のパートをやって働いておられるとのお話でした。

キャムデンを失い失意のドン底で苦しんだ日々を経て今私達の元には6歳のジャクソンがきてくれました。飼い主だった奥さんは「これはきっと神様が私達を引き合わせて下さった結果でしょう、成る可くしてなった結果だと思います」と仰ったのですが私も不思議な縁を感じ、キャムデンが引き合わせてくれたのではないかと思います。

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連れ合いとジャクソン。(c) Ayako

 

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ジャクソンと私。(c) Ayako

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ジャクソンと私。(c) Ayako

あっという間に年の瀬、そして大晦日。

肝臓移植、腎臓障害、複数の癌に侵され80歳で逝った友人は彼女が生きている間に何十回と手術を受け体は十文字に手術の跡が複数残りその凄惨な病歴を物語っていますが、彼女が生前いみじくも言った「人は生まれ落ちた瞬間からその人の一生の生きる時間は予め決められている様な気がする」と云う言葉が忘れられません。

例えばどんなに危険な所に居ても不思議と傷一つなく生き延びる人が居るもので、私の夫はベトナム戦争時に国務省から派遣され南ベトナムでC I Aのスパイをやって居ました。 彼の話を聞くと6年間もジャングルの中でスパイ活動をして居て良くも生きて帰って来られたものと驚きますが、二人で一緒にジープに乗って居た相棒は銃撃の際に弾が頭蓋骨を貫通し即死したのですが、僅か50センチ程離れて座って居た夫は飛び散る銃弾の中を不思議とかすり傷一つ受ける事も無く生き延びたのです。

この原稿を書いている2017年のクリスマスイブに今年1年を振り返りますと私の周りだけでも6名の方が亡くなりました。 こう云う言い方をすれば大変不謹慎かも知れませんが、90歳を過ぎて所謂歳に不足は無い方から、未だ若いこれからを期待された方など様々ですが、人の命と云うのは常に死と隣合わせだと云う思いを新たにした出来事が有りました。

12月3日(日曜日)の朝8時ごろ夫が耳が痛いと言い出し医者から処方された抗生物質Amoxiciillin 875mg を1錠服用しました。彼は耳の持病が有り症状が酷くなる前に最初の症状が出た時点で直ぐに服用するとこの薬はバクテリアの増殖を止める働きが有りますので症状が緩和され、過去数年はこれを常備薬として使って居ました。

薬を服用して直ぐに彼は車で外出したのですが10分もしない内に家に戻って来ました。私は何か忘れ物でもしたのかと思い玄関のドアを開けますと「気分が悪い」と言って寝室へ直行しベッドに倒れ込みましたが直ぐに激しい嘔吐が始まり息も絶え絶えに「医者に連れて行ってくれ」と申しますが、一人では立てない状態であり私が彼の体を支えて運転して医者へ連れて行ている場合では無いと判断し911に電話をし救急車を要請しました。

救急隊が到着したのは約10分後でしたが心電図と血圧測定の結果血圧は上70・下30迄下がっており既にこの頃はこちらの呼び掛けにも十分に反応出来ず重篤な状態となって居ました

直ぐに救急病院に搬送されたのですが、激しい体の震えの為自力で衣服を脱ぐ事は既に不可能となって居て看護師さん達が体を押さえ付けハサミで彼の衣服を切り、色々な薬品がチューブを通して体に入るスパゲッテイ状態となり2日間病院に留め置かれる事になりました。

これは一般に良く言われるペニシリンショックと云うもので、夫も私も彼がペニシリンにアレルギーが有ると云う事を全く知りませんでしたし、この薬は過去少なくとも2、3年は服用して来て何の問題も起こらなかったのです。

ところが救急病院の医者の説明では今迄ピーナツを食べて何事も起こらなかった子供が或る日ピーナツを1粒食べた途端に突然アレルギー反応が起きて呼吸困難になる様なもので、体内で長い間に蓄積されたアレルギー物質が全ての条件が揃った時点で大爆発を起こすのだそうです。

従って今後はペニシリン系の薬は一切使えなくなり、肺炎に罹らない様くれぐれも注意しないと、一旦肺炎に罹患すると今度は使う薬が無いとの事で、エピペンと云うアレルギー反応が出た時点で即注射をしアレルギーを中和する薬を常備する様に指示されました。

夫があの時苦しいながらも何とか自力で自宅まで辿り着けた事、そして幸いにも私が家に居て救急車を呼んだ事が彼の命を救った訳で、医者は例え彼が家まで戻れていたとしても誰も家に居なくて911に電話をしなかったら100%あの時点で彼は死んでいたと言いました。

私達は自分の死の時を知らされてはいませんし、余りの苦しみに耐えかねて死を望んでもそれは与えられるものでもなく、人が生き永らえると云う事は何かしら人間の力では無い何か大きなものの力が作用しているのではないかと思えます。 生きているが故に本人には分からずとも何かの役に立っている事もあるでしょうし、生きている間に学ばなければならない事柄が有るのでそれが終わる迄は大きなものの力で生かされているのかも知れません。

今年のニュース

今年も残すところあと2週間ほどとなりこの1年を振り返って見た所、様々な事件が世界中で起きていたことを改めて感じました。

人それぞれ感じ方が違うのでどれが最大級のニュースであったかは決められませんが、今私の脳裏に浮かぶのが日本国内では熊本地震、オバマ大統領の広島訪問、東京都知事に小池百合子氏、ノーベル生理学・医学賞に東京工業大学の大隅氏が選ばれた事、世界的には北朝鮮が水爆実験を実施した事、韓国の朴槿恵大統領の親友に依る国政介入による弾劾訴追、パリ同時テロとフランスのトラック突入テロ、フリュッセルの空港、地下鉄同時テロ、イラク軍に依る「イスラム国」拠点のモスル奪還作戦開始などです。

特に今年はテロ関連のニュースが多い様に感じますが、シリア北部アレッポの空爆では内戦は泥沼化しておりそれに依る避難民の流出と、それを受け入れる国々でのトラブルなどが日々放映されるテレビの画面を見ていると幼い子供達の置かれている環境や立場に心を痛めます。

オバマ政権はシリアなどからの難民受け入れ拡大を表明し8万5千人を受け入れるとし、更に来年9月迄にシリア難民1万人を受け入れるとしています。 しかし全米で半数を超える28の州の知事がシリアからの難民受け入れ及び再定住に反対しています。

ホワイトハウス側は厳格な審査手順を踏むことを理由に計画の実施に伴うリスクの低さを強調しているものの、パリ襲撃を受け一部の共和党議員からは内戦が続くシリアから逃れた人々を信仰する宗教に基づいて選別すべきだとの主張も出ており、オバマ大統領はこの提案を恥ずべきものとして批判しています。

そもそも何故イラクで戦争が起こりこうした大量の難民が発生したのか考えた時に、元を正せば2001年の9月11日イスラム原理主義勢力によるアメリカ同時多発テロ事件をきっかけに当時大統領であったジョージ・W・ブッシュが2003年イラクが大量破壊兵器を隠し持っていると云う疑惑を理由に報復としてアフガニスタン侵攻を行いイラク戦争へと発展して行った事です。

然し乍ら2004年10月アメリカ合衆国政府調査団は開戦時にはイラク国内に大量破壊兵器は存在せず、又具体的な開発計画も無かったと結論付けており、更にアメリカ上院情報特別委員会が旧フセイン政権とアルカイダの関係を裏付ける証拠は無いとの報告書も公表しており開戦の正当性は根底から揺らぐ結果となった訳です。

難民は最初その多くが富裕層だったこともありヨルダンを始めとするどの国の政府も難民の存在を容認していたのですが、この1、2年で津波の様に押し寄せる難民の長期化はどの国も経済的に大きな負担となり、受け入れる側の国民の不満へと発展して来た訳です。

私が現在住んでいますサウスキャロライナ州グリーンビル市はアメリカ南部のバイブルベルト地帯と呼ばれ街角に在るガソリンスタンドより教会の方が多いのではないかと感じる程宗教色の濃い都市です。

リベラルな都市ロスアンジェルスに40年近く住んでいてリタイアを機に越して来た11年前はその余りにも宗教色が強い環境にアレルギー反応を起こしそうになったのですが、慣れとは恐ろしいものでそんな私でも10年の歳月をかけて順応して来た訳ですが、先週教会の集まりの時に来月シリアからの難民が当地に来るので教会としてはその支援に廻り60万ドルを拠出したと報告され我が耳を疑ったのです。 

当時その場に居た人たちの誰一人として異議を唱える人は居らず唯黙ってその発表を聞いて居ましたが、反面これを聞いて歓喜の拍手をする人も誰一人として居ないと云う事が受け入れる州民としての複雑な胸の内を如実に表していました

更に付け加えて今後冬に入り寒くなるので各家庭1枚のコートを難民達に寄付して貰いたいとの事で寄付品の持ち寄り場所や期間などが詳しく説明されました。

サウスキャロライナ州は難民受け入れに対し反対を唱えている州ですが、今回の様な依頼と云うべきか達し事項というべきか、とにかくこの様な報告が政府から入った訳です。

テレビの画面に映し出される被害に遭った幼い子供達の姿を観るたびに心が痛み、一日も早くこの子達に両親や兄弟姉妹と一緒に住める安住の地を与えて上げたいと云う思いはあるものの、大挙して押しかける難民に平穏な暮らしを邪魔されるのは堪らないと云う矛盾する気持ちが私の中に明らかに有り、これがクリスチャンとしての私の信仰を試されているのだと思います。

アメリカは移民で成り立って来た国ですし私自身が移民と云う立場を考えると、懐深く受け入れてくれたアメリカと云う国に対して大きな感謝の念を持ち、ここで学ぶ機会を与えて貰い精神的にも成長出来その恩返しにアメリカに何かの形で貢献したいと常々思っていますし、この難民の中から将来のアメリカ大統領が出るかも知れません。

アメリカが始めた戦争で罪もない子供達や一般市民が巻き添えを喰ってこの様な状態になったのですからアメリカとしてはその責任を果たすべきで難民受け入れは当然の事と思いますが、受け入れる側としては難民の中にテロリストが紛れ込んでいる事も考慮しこれによって受けるであろう被害を考えると人道的立場だけで即受け入れを決められる程この問題は簡単ではありません。

これを読んで下さる皆様のお考えは如何でしょうか。

2017年皆既日食 @サウスカロライナ

8月21日(月曜日)は、99年ぶりの皆既日食がアメリカ大陸で観測されました。

サウスカロライナ州は地理的にもちょうど日食が横断するところにあたり、ここノースカロライナからも多くの人たちが歴史的イベントを見届けるために訪れたようです。

サウスカロライナ在住なので、いくつか写真を撮りました。感動のおすそ分けです。

サウスカロライナ州の皆既日食 (c ) Ayako
©Ayako

サウスカロライナ州の皆既日食

サウスカロライナ州の皆既日食 (c ) Ayako
©Ayako

サウスカロライナ州の皆既日食

サウスカロライナ州の皆既日食 (c ) Ayako
©Ayako

サウスカロライナ州の皆既日食

サウスカロライナ州の皆既日食 (c ) Ayako
©Ayako

サウスカロライナ州の皆既日食

平成版日本むかしばなし

今年の春我が家の玄関の軒先に小鳥が巣を作りました。

本当に小さな鳥でどんな種類の鳥なのか名前も知りませんでしたがやがて5つの卵を産み母鳥は一生懸命卵を温め、巣に座り続ける母鳥の為に時には父親らしき鳥が餌をその母鳥に運んで来ていました。

どれ位経ったのでしょうか正確に日数を数えた訳ではありませんが、やがて卵は孵化し小さな5つの頭が巣からほんの少し覗く様になり、母鳥は忙しそうに餌を求めて飛び回り再び巣に戻っては子供達に食べさせ、又再び餌を探しに飛び立つと云う事の繰り返しです。

見ているとまるで人間世界の産休から職場に戻った女性の様で、仕事と育児と家庭を両立させると云う至難の技を一人でやっているスーパーキャリアウーマンの様です。

兎に角雛を安全に育てる事に必死で私達が玄関のドアを開けて外へ出ようとすると母鳥は巣から飛び立ち様子を伺いますので母鳥に余計な心理的ストレスを掛けさせない為、それ以来私達は多少不自由でも裏のドアから出入りする様にしました。

ある日玄関で鳥の鳴き声がしきりとするので窓に目を向けるとブルージェイが来て母鳥を攻撃しているではありませんか。

慌てて玄関のドアを開けて外に出て見ると母鳥はコンクリートの床に落ちていて私が拾い上げ手のひらに乗せると最後の息を一つして死にました。

雛を守る為自分の身を顧みず自分よりも数倍も大きなブルージェイに果敢に立ち向かい、刃折れ矢尽きて死んで行った親鳥を見ると何としても残された雛たちを助けなければと云う思いが湧き上がり、主人は高い梯子を持って来て残った雛たち全部を取り敢えず家の中に入れました。

朝顔につるべ取られてもらい水、5つの卵が孵化したものの1羽はブルージェイに食べられ母鳥と共に死に、4羽となった兄弟達は小さなタッパーウエアの新しいベッドの中で身を寄せ合う様に丸くなって震えていました。

鳥を飼った経験も無く、ましてや未だ羽毛も生え揃わないハゲタカの様な体でかすかな息をしているこの雛たちに一体何を与えていいのか全く知識が無いので取り敢えずインターネットで検索した結果、地中のミミズ、ハエ、蚊、ひまわりの種をすり下ろし水を加えてドロドロにしたもの、ゆで卵の白身を切って裏ごしにしたもの等が良いと書いてあったので主人が庭に出てミミズを採って来て

「Hey guys、This is today’s special!
“chatch of the day”」

なんて言って細かく切って与え、私は丁度家にあったオーガニックの無塩ひまわりの種をすり鉢で擦ってそれに蜂蜜と水を加えてドロドロにしたものをピンセットの先で口に入れてあげました。

 (c) Ayako
©Ayako

朝顔につるべ取られてもらい水

(c) Ayako
©Ayako

未だ孵化してそう日数が経っていなにので嚥下が上手に出来ずすぐに嘴を閉じてしまうので兎に角脱水状態になる事だけは避けなければならず、インターネットで得た知識を元に水を嘴の横に1滴落とすと口を開けて上手に飲むのを見て私も主人もホッと胸を撫で下ろしました。

これを1日に15分置きに繰り返す為私たちの食事は後回しとなり雛中心の暮らしへと傾き、年寄り夫婦がのんびりとリタイア暮らしをしていて本当に良かったと思いました。

2週間を経た今では食事の間隔も徐々に長くなり食べ方も上手になって私たちの顔を見るとピーピーと嘴を開けて鳴く様になり現在では「お食事回数」は1日に5回ほどで済む様になりました。

雛を育てると云う経験を通して自分が若かった頃必死で我が子を育てていた頃を思い出します。

最初に笑った時、バブバブと意味不明な言葉を発した時、捕まり立ちが出来た時、歩き始めた時、懐かしい至福の時が波の様に押し寄せて来ました。

お腹が空けば雛達は嘴を大きく上に向けて開け羽をバタバタ震わせ狂った様にピーピー鳴きます。

ピンセットの先で摘んだミミズなどを口元に持って行くと貪る様に食べる姿がテイーンエージャーだった頃の息子の姿と重なり、学校から帰ると

「ただいま」

よりも

「お腹すいた」

と云う言葉が先に出てひとしきりお八つを「食べた後で」

「ご飯未だ?」

と言っていた声や姿が鮮明に蘇りました。

そうやって我が身を削る様にして育てた我が子もやがて「親批判」をする様になります。

その頃は未だ良かった、その内物を言わなくなり図体だけは巨人の様になった息子が私の横に立っていて見上げ乍ら

「何?」

と尋ねればヌーっと手だけ出して「お金」と言う。

全く私は金蔓以外の何者でも無いのだと認識させられる日々。

そして痩せ衰えた親のスネをかじられるだけ囓った挙げ句の果てにある日突然

「僕、結婚したよ」

の一言。

奈落の底に突き落とされたショックで寝込んだ思い出が苦い涙と共に蘇りました。

お爺さんは庭にミミズを探しに行き、お婆さんはイソイソとひまわりの種をすり鉢ですり、

「雛ちゃんお口あ〜んしてごらん」

と言いながら幸せに暮らしました。

印鑑に思う

アメリカ在住歴が長くなると契約等を取り交わす際は日本と違い各個人のサインが重要になり印鑑を使う必要性が無く、印鑑そのものを持たない事が当たり前になって来ます。

印鑑と云う言葉を聞いた時、あなたはどんなことを考えますか?

日本で銀行口座を開設する時に必用なモノ。

書画の作者によって独自の作品の上に押したモノ。

回覧や宅配の受け取りなどに使われる認印で所謂三文判と呼ばれるモノ。

契約書などの文書において記載事項の誤記を訂正する時の極小さなハンコ。

予め訂正箇所が発生することを前提として、契約書や委任状の文章の余白に押した捨印

ちょっと思いついただけでこれだけの印鑑の種類と用途や意味が有りますが、印鑑と言えば中学の社会科の授業で習って皆さんご存知の通り1784年に現在の福岡市の志賀島と云う島で出土した「漢委奴国王」の金印が日本最古のモノとして有名です。

今回私は日本に住む90歳の母を施設へ入居させる為に約一ヶ月程日本に滞在しましたが、その間幾度となく書類に捺印をする機会が有り、住所変更に伴う届出だけでも市、銀行、医療機関、生命保険会社、公共料金の口座、デイケア施設など、契約書では新施設、銀行引き落としに関する書類等署名の他に捺印と云う習慣が有り、私の様にハンコを押すと云う習慣から半世紀近く遠ざかっていた者はハンコの押し方がきちんと出来ず押印したハンコの一部が掠れていたり、ダブったり、欠けていたりすると情け容赦無く書類は受付を拒否され戻ってきて、再度新たに押印して提出する義務があります。

今回は限られた時間内に取り交わすべき書類にハンコが正しく押されていなければ書類を持って慌てて彼方此方駆けずり回り何とか時間内に完了させなければと云うプレッシャーでヘトヘトになった経緯があります。

母の主治医が出す処方箋に関する薬代金の銀行引き落とし依頼書に押したハンコが一部掠れた様になっていた為銀行から取引を拒否され、薬局の担当者が新たに書類を航空便でアメリカの私の住所に送るので受領次第押印して即送り返す様一昨日Eメールで連絡が入りました。

ロケットが空を飛び、ips細胞が開発され、電子マネー決済が通用するこの時代に、百年以上も前の習慣を日本の政府や金融機関や不動産業者や宅配に到るまでがハンコ下さいと言って書類を持ち回っている事が私にとっては何とも時代錯誤を感じることなのです。

印鑑はもともと中国から日本に伝わって来た文化ですが、その中国でさえ唐の時代には書道の発展を背景として署名が用いられる様になり、公文書や書状に私印が使われる事は少なくなり、その一方書画などに用いる趣味、芸術のための印章が使われ始め印影そのものを芸術とする書道としてのハンコと発展はしても、印章が実用的な日用品として用いられる事はなかったのです。

江戸時代には行政上の書類のほか私文書にも捺印する習慣が広がり、現在の印鑑登録の起源となった印鑑帳が作られ印鑑は命の次に大事なものに例えられ、庶民の財産を保証するものとして非常に重く扱われる様になり日本独自の印章文化が確立した訳です。

それでも明治政府はこのハンコ文化の偏重を悪習と考え欧米諸国にならって署名の制度を導入しようと試みたのですが当時の識字率の低さや事務の煩雑さを理由に反対意見に押し切られ、自署の代わりにハンコを押せば事足りるとの事で現在のハンコ文化へ繋がったのです。

ハンコは100円ショップでも売っていて簡単に入手でき、誤魔化そうと思えば幾らでも出来るわけです。

明治の頃とは比べ物にならない程犯罪が多い現代は誤魔化す技術も高度になり偽印鑑は掃いて捨てるほど有ります。

それなのに何故この印鑑制度を21世紀にもなって続けているのか、世界中で捺印を義務つけているのは日本だけです。

然し乍ら印章は人の同一性を表す為に文書に使用されるものであることから、その社会的信用を保護する為刑法は印章偽造の罪を設けています。他人の印章又は署名を偽造した者は3年以下の有印私文書偽造の罪に問われる事になります。

お宅に印鑑は有りますか? 
最後に印鑑を使ったのはいつですか?
あなたにとって印鑑は必要ですか?